昨日麻生氏の例の発言の話を読んで、はああの流れはそういうことだったかと思いました。まあ麻生氏をさかのぼると吉田茂ですから、ああいうところがあっても不思議では全然ない気がしますが。ただやはり、権力財力のあるものにずっと政治をさせるというのはよくよく考えないとというのはやはりここでも思わされますね。皮肉なことにというべきかどうかわかりませんが、『戦国策』だったかなにかには「ある程度の権力を保持したら身を引くことが賢明」的な意見がちらほら見られて実際そうしている政治家もおり、書いてあることをそのまま信じるならば、余程昔の中国のほうがまともではないかと思う次第。あの頃は、君主ですら下手に権力を誇示しようとすれば簡単に殺されたからというのもあるのかもしれませんが。良くも悪くも、少なくとも今の日本にはそれがないですからねえ。
権力云々というと、いつも自分が思ってしまうのが、孫呉、特に孫権。何かというと三国志と結びつけてしまう自分ではあります。で、自分はやはり三国で一番好きなのは呉なんですよね。呉に勢力を広げたのは兄の孫策ではありますが、暗殺されて確か18歳であとを継ぐことになったものの、実力のある家臣はいるといえど、大抵がその土地に基盤を持つそれこそ「権力者」たちで、彼らの場合は極端な話、「よそ者」の孫権よりその土地での自分の権力維持が大事という感じ(赤壁の際の張昭がいい例と自分は考えます)でしたし、孫堅(孫権の父)の代からついてきた家臣と彼らとの間も、そのあたりで軋轢があった感じもありますので、本当にバランスとりで大変だったのではないかなあと同情してしまうわけです。孫策の幼馴染の周瑜も「権力者」の一族ではありましたが、孫権があとを継いだ時に率先して従属の意思を示してくれたことから、ほかの「権力者」たちも割とスムースに従ってくれたという話もあるくらいですし。
で、そういう「権力者」たちに囲まれた中でおそらく孫権が心を許せた1人が、こちらもよそ者だった我が神だったのではないかなというのが持論だったりします。もともとは汝南の人間でエリア的には曹操や袁紹に近かった(袁紹も汝南の出身)のが、家の事情で呉のほうに移ってきたという流れですので。それに名家の出というわけでもなく、張昭の後押しは少しあったようですが、実力で上がってきた人で土地のしがらみもないということから、孫権にとっては心を許せる以上に愚痴をこぼせる数少ない人だったのではないかなあという気がするわけです。それを(おそらく温かく)受け止めた人ということで、自分の今の我が神像ができました。武将の絵というと大概決まったパターンがあり、一時期それに近い我が神を描いたこともありますが、結局は今のパターンに落ち着きましたね。自分が憧れる人物像に重なるということもありまして。
ともあれ、国力もあれでしたが旧態を尊重した蜀が結局は最初に滅び、次に魏が晋にとってかわられ、呉はなんだかんだ言っても晋に滅ぼされるまで残った国というのは大きいと思うんですよね。孫権が晩年に二宮の変(いわゆる後継者争いに絡む政治的内乱)をもたらしていなかったらもっと続いていた可能性もありますが、孫権の酒乱と晩年の荒れ様は個人的には完全には責められないんですよね…。理由は先に書いたことと同じで、ついお酒に走ってしまうというのは、立場的にいろいろ耐えないといけないことがやはり想像以上にあったからなのではないかなあという。そういうお酒まで自分はたたく気はないです(だがあのレベルの酒乱はいかん)。加えて我が神は219年に亡くなってしまって、そのあとは朱然と陸遜が継いだ形にはなっていたわけですが、陸遜がこれまた「権力者」の流れでしかも孫策に一度滅ぼされた家柄と来ているので、いろいろと複雑でしたし。朱然はよそ者ではないですが「権力者」とも若干違う上に立場的には孫権に近かった(小さい頃の学友でもあった)ので、我が神にいくらか近い存在ではありましたが、この人も長患いの末に孫権より先に亡くなっていますし、それはガタも来るわなと。そう考えると孫権は頑張った方ではないのかなあと。
久々に重い内容とはなりましたが、結局何が言いたかったかというと、我が神はいろいろな意味で大変だったろうなあということです。でもまあ、あれだけ最期に孫権に大切にされたことを考えると、報われた人生ではあったわけで。それが後世になって演義での扱いは言わずもがな、某人形劇では赤兎馬に崖から落とされ、某ドラマでは孫権に毒殺され(たか斬られて殺されたかだったはず)…〇〇〇〇〇です、本当。ということで、今回はこの辺で。
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