今日は当地もずっと雨。明日は一応やむ予想になっております。そのあともマークだけ見れば割と晴れで安定しそうなのですが、降水確率が30~50%なので、いまいち安心もできないという感じです。
最近見ているTwitterのリンクにあった記事で、このようなものがありました。総社市は大きいクラスターが過去に企業の外国人職員寮で発生しています。一方でこういった感じで対応も早いようで、それが救いですか。最近コロナ系統の記事のコメントを見ているとよく知事や市町村のトップがたたかれていて、確かにそこに問題がないわけではないと自分は思います。ただ、ではすべてのトップに、何でもやりこなそうとする諸葛亮になれというのかという話で。
以前読んだ『呂氏春秋』でそういう考え方があるかと思ったのが、トップは仕事ができなくてもいいという意見。なぜならそれは配下のやることだから。では何ができなければいけないかというと、人材を見抜くこと。適材適所ができるかどうかがトップの才能ということで、仕事は配下に任せるべきでそれでないと配下を置いている意味がないという話なんです。この考えでいくと、対応がうまくいっていないのはそこの自治体の職員に問題があるということになり、その職員を採用したトップや関係部署にも問題があるということになります。その自治体の体質も然り。上に言われないと動かないのか、はたまた動けないのか。後者は、自分勝手に動けというというわけではなく、何か意見があったら言って上を動かせる空気があるかどうかという意味です。
あと、どの本だったか忘れましたが、自分の担当ではない仕事をやって、やった人と本来担当の人両方が罰せられるという話を何度か読んだことがあります。『晏子春秋』でも、景公が晏子に寒いから服を持ってきてくれとか食べ物を持ってきてくれと言い、晏子が自分はその担当ではないからしかるべき人に言ってくれと断っているシーンがあって、自分はそれはそれでいいのではないかという考え方です。日本は学校の成績でもそうですが、1人にすべてを求める傾向があるような気がします。理想ではありますが、どれかに秀でていたらそれをとことん伸ばすのは十分ありだと。結局、最小限度で済まそうという結果が「一人万能主義」なのではないかなあという。
ということで、久々にまじめな話題になりましたが、ここのところずっと感じていたことなので、ぼやいてみました。本当、最近は読書がどこかに行ってしまっておりますが、とにかく我が神を描きこみたくて仕方が無くて。もちろん(?)我が神が主人公の妄想シナリオに基づいたものです。このシナリオ内では、かなり設定が複雑なのでここではすべては書きませんが、この世にいる我が神は要は再生した一種の化身で、何度か載せてきた瞳の色がそれなりの我が神のイラストのような、生前(いわゆる史実の活躍をしたころというか)のそれとは容貌が異なるのもそれが理由の一つとなっています。なおこのシナリオ、現在自分の持っている諸葛亮考に沿ったもので、どちらかというと諸葛亮が悪役よりです。以前ちょっと触れた王火も父親が張任(劉璋配下で劉備に降ることを潔しとせず処刑された)配下だったことで劉備勢力をよく思っていないという設定で、過去諸葛亮大好きだった自分から見たらとんでもないストーリーだろうなあと思います。では今回はこの辺で。
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