2.11.09

関ヶ原・垂井・長浜紀行 7

 共有サイトが復活したので、旅行記を再開します。
 お墓参りをしたあと、どうしても寄付をしたかったのと、参拝記念の手ぬぐいが欲しかったので、賽銭箱前にあった木の板をたたいたのですが、1回目何もなく、2回目何もなく…3回目で何もなかったらあきらめようと思いつつたたいたら、返事が。どこから側からずきょろきょろしていたら、お寺の門からおばあさんが。この方が今お寺を管理されている方で、ちょうど畑仕事をされていたのだそう。それで包んだお金を渡してから、手ぬぐいがあるかどうか聞いてみたら、矢張り前日の関ヶ原でのイベントで売れてしまっていたのですが、ひとつだけ見本としてとっておいたのがあるのでそれを差し上げますとのこと。ちょっと待ってくださいといわれたのでそこで待っていたら、お寺の戸をあけて中に入れてくださいました。何と手ぬぐいとともに、そのお寺で扱っている梅干まで下さいました。
 そしていろいろ貴重なお話を聞かせていただくことになったのですが、まずこのお寺に安置されている半兵衛さんと黒田官兵衛・長政父子の御位牌の写真から…

 

左が半兵衛さんの、右側が官兵衛・長政父子のもので、後者は左側に長政の戒名、右側に官兵衛の戒名が書かれております。今回はソフト発光を使ったためか戒名ははっきり見えるかと思いますが、半兵衛さんの戒名、頭に「開基禅幢寺殿」とついております。これでは半兵衛さんがこのお寺の開基と思っても仕方がない…。で、この二つの御位牌を比べていただくと(また9月の三木の旅で紹介させていただいた半兵衛さんのもうひとつの御位牌と比べても)わかりますが、半兵衛さんの御位牌、両端が欠けています。これは、御位牌を保存していた建物が雪でつぶれてしまって(!!)、取り出すことはできたもののこうなってしまったのだということ。関ヶ原も、以前ほどでは最近ないようですが冬場新幹線が止まる名所(?)ですから、ここも雪が大変なところなのでしょう。ちなみにこの二つのご位牌は別のところに置かれておりまして、半兵衛さんのはお寺左奥の恐らく竹中一族の御位牌が安置されているところ、そして黒田父子のは仏壇左上の祭壇のようなところに置かれております。
 で、ここで半兵衛さんのお墓のもう一枚の写真を載せますが…



 実はそっくりなお墓が、2つの五輪の塔を挟んであるのですが、誰のお墓なのか尋ねたら、このおばあさんも竹中の御一族の方も御存じないとのこと。半兵衛さんのお墓とわかるのは、この建物の中には五輪の塔が安置されていてそれに「半兵衛」の名があるためなのだそうです。ところが隣の建物の中にある五輪の塔には何も名前がないためわかりかねるのだそう。形大きさが似ていることから、父親の重元か子の重門のものではないかという話でした。そして実はこの五輪の塔こそが、最初三木(平井)のお墓にあったものなのだそうです。つまり、子の重門が(15歳のときだそうですが)三木から移したというのは墓石だったんです。今三木にあるのは後になって作られたものなのだそうです。これで謎が解決しました。
 で、竹中家は幕末に重固が幕府側についたので、所領を没収にされた上御家断絶にされたそうですが、黒田家は明治政府側についていたため一生懸命とりなしてあとあと役職にもつけるようになったというお話。これとはまたちょっと違うお話を菁莪記念館でこのあと聞くのですがそれは次回お話させていただくとして、半兵衛さんが松寿丸(長政)を救ったただ一度のことで黒田家は本当に恩義を感じたようで、本当にいろいろとお骨折りをしてくださったものだとおばあさんが語っておられました。また、半兵衛さんは三木に知行をもらったそうなのですが、自分が病にかかっていろいろ土地の人に迷惑をかけたからということで、すべてを寄付した上にいろいろと心遣いをしたそうです。今回手に入れた資料のひとつによると、疲弊した三木の一帯を立て直すため山林を切り開かせたり農地を開拓させたりもしたようで、それがために半兵衛さんの人気は地元の垂井よりも三木のほうで高いそうです。垂井では賛否両論あるということでしたが、おそらくそれは半兵衛さんに対してというよりは重固が幕府側についたことから竹中家に対してというお話ではないかと個人的には思う次第。明治政府が会津に対してやったことを考えると垂井も何がしかの扱いを受けたのかもしれませんが、このようなところにまで明治のごたごたは傷を残したものかと悲しくなるokamelであります(okamelは特に幕府・会津側から幕末史を調べてきた人間ですので、いよいよなんともいえない気持ちになるわけです)。そのあたりも、今後時間があったら調べてみてもいいかもしれないと思っております。おばあさんは、小泉元首相の「3つの坂」の話を引き合いに出されて、「『まさか』(これが小泉元首相の言う第3の坂)半兵衛さんも竹中がこうなるとは思っておられただろうか…でも土地を持ち続けていたとしても農地改革で全部とられただろうし、そもそも半兵衛さんはもともと無欲の方だったから…」と、感慨深げにおっしゃられていたのが印象に残っています。ちなみに確か6月の第1日曜に半兵衛さんの法要を行われていらっしゃるそうです。こちらは禅幢寺の仏壇(正式には何といえばよいのかokamelにはわかりません)です。竹中の九枚笹の紋があるのがお分かりかと思います。



 他にもおばあさんが御主人とご一緒にこのお寺を引き継ぐことになったいきさつやその他興味深いお話をいろいろとしてくださったのですが、それはここでは割愛させていただきます。次回は長浜と2回目の菁莪記念館訪問について書くこととします。

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