昨日も慣れのために両方使ってみましたが、一長一短…新しいWindows7(64bit)では今のスキャナが使えないことが判明。それ用のドライバがないんです。一方Ubuntuにはあるのですが、画像編集ソフトがやたらややこしい。最悪は旧PCを引っ張り出してのスキャンになってくるかなと…。とりあえずはスキャンのときだけUbuntuを使ってみることにします。メインはやはりWindowsですね…でないと、外付けに入れている古文書が読み込めないので。
で、話はがらりと変わりまして、昼のナニコレ珍百景をビデオにとったのを食事時に見ました。話の内容から言っておそらく昨年秋ごろのものだと思うのですが、そこで意味不明の看板のコーナーが始まるや否や、紹介されたところは…
「岐阜県垂井町」!!
ぅおっ、えええええ~!?
出た映像は垂井町を流れるたしか相川という名だったと思いますが、そこの懐かしい風景。残念ながら看板は登録されませんでしたが、もう心の中はうるうるがとまりませんでした。恋しいなあ…なんだかんだで、もうすぐまた6月13日が来るわけで、今年はどんなイラストを描こうかと考え始めているところ。ちょっとしたことでも半兵衛さんのことが頭に浮かぶ今日この頃になっております。来年の大河ドラマには出てくるのかどうか…ちょっと気が早いですかね。それにしても半兵衛さん、まさか400年余り後になって、自分の領地に「珍百景あり!」なんていわれるとは思いもしなかったでしょうね(苦笑)。
8.11.09
関ヶ原・垂井・長浜紀行 10
今回は旅行で得たものの紹介になります。
まずは関ヶ原でしたので、そこで得たもののひとつを。旅行記2で触れたスタンプ帳(?)機能付きの観光地図の裏面がこれです。表は地図になっています。

あとokamel的に面白いと思ったパンフはこれ。両軍の代表的武将の分析表もあるのですが、黒田長政の人望が2というのは「…」。それで官兵衛さん、晩年にあのような態度を取ったのかな(長政に人望がいくようにわざと荒れたそうです)。

そして関ヶ原歴史民俗博物館で得たのがこちらの数々。結局竹中系のグッズを手に入れることができたのは、禅幢寺とここだけでしたので、買っておいてよかったというか。右2枚はホルダーの両面写真で、よくよく見ると中に挟んである紙は和風印刷用紙が使われていました。

もちろん関ヶ原合戦当時半兵衛さんはすでに亡くなっていますので、丸に九枚笹は重門ということで紹介されております。下に敷いているマットも購入したもののひとつで、現品限りにして最後のひとつでした。トランプはかなりこっておりまして、いわゆる絵札(J、Q、K、A)は主な参加武将の旗印になっています。重門さんもあります。
それから今度は垂井で得たパンフ。昨年来た時と変わっているのに少々驚いたokamel。その2つを紹介しますが、まずはこちら。ちなみに左側が昨年収集したもの、右側が今年のものです。

半兵衛さんの銅像の写真が加わりました。そしてこちら。

今年のは折りたたまれてもいない…。それはともかくとして、どうも「北部」という銘うちがあるので、エリアごとのものに作り直したようです。あと昨年のものに載っていた半兵衛さんの甲冑を着たマスコットキャラが消えて、別のキャラクターに。このマスコットキャラは今はレンタサイクルでしか見られなくなっているのかな(その写真は旅行記6で見られます)。
そしてこちらが禅幢寺で購入できるもの。左が梅干で右が手ぬぐい。

梅干は、昔ながらの塩と紫蘇だけでつけたものですとおばあさんが教えてくださいました。今白米や雑穀米、そして時にはお茶漬けにして食べています。新書太閤記に、京で療養中の半兵衛さんを見舞いに来た秀吉に対して半兵衛さんがさりげなく席をはずして手料理を振る舞い、それを知った秀吉が料理にこめられたぬくもりに涙するというシーンがありますが、その気持ちが味わえるような気がします。そして手ぬぐいはこのような感じになっております。

内側を見せるように撮るとよかったでしょうが、かすかに内側にかぶとが見えるのがわかりますでしょうか。背のほうの家紋はおなじみ丸に九枚笹、そして下の水玉模様は竹中家のもうひとつの家紋である白餅(他の本によると黒餅ともいうようですが)で、これはお正月の残りのお餅を半兵衛さんが懐に入れて出陣したら、たまたま流れ矢がそのお餅に刺さって命拾いしたためもうひとつの家紋にしたと言う話があり、後にそれは黒田家と譲り合ったとか何とか聞いております。そしてこの模様にはもうひとつ意味があって、昔お寺で(だったと思いますが)餅まきの風習があって、それを表してもいるのですとおばあさんが教えてくださいました。
それからこちらは菁莪記念館を訪れたときに購入した、地元発行の半兵衛さんの伝記本。

地元ならではの温かみがあるという感じで、okamel好きです。終わりのほうにその後の竹中家と垂井に関しての話もあります。
最後にこちらはたるいピアで購入したパンフ。過去に開催された特別展(常設展エリアの横に特別展示用の部屋が1つあります)のパンフが事務室で購入できるようになっていて、展示室内のカタログで希望するパンフの番号を確認して購入しました。これもまた地元でしか購入できない貴重な資料と言えます。

長浜では時間がなかったこともあり、何も購入しておりませんが、資料パンフは収集しています。ただ本当に展示史資料の解説パンフなので、ここでは割愛します。
ということで、ちょうど10と言うなんともきりのいい番号になりましたが(もちろん計ってこうしたわけではありません(笑))、これで今回の旅行についての記事は終わりとします。
まずは関ヶ原でしたので、そこで得たもののひとつを。旅行記2で触れたスタンプ帳(?)機能付きの観光地図の裏面がこれです。表は地図になっています。
あとokamel的に面白いと思ったパンフはこれ。両軍の代表的武将の分析表もあるのですが、黒田長政の人望が2というのは「…」。それで官兵衛さん、晩年にあのような態度を取ったのかな(長政に人望がいくようにわざと荒れたそうです)。
そして関ヶ原歴史民俗博物館で得たのがこちらの数々。結局竹中系のグッズを手に入れることができたのは、禅幢寺とここだけでしたので、買っておいてよかったというか。右2枚はホルダーの両面写真で、よくよく見ると中に挟んである紙は和風印刷用紙が使われていました。
もちろん関ヶ原合戦当時半兵衛さんはすでに亡くなっていますので、丸に九枚笹は重門ということで紹介されております。下に敷いているマットも購入したもののひとつで、現品限りにして最後のひとつでした。トランプはかなりこっておりまして、いわゆる絵札(J、Q、K、A)は主な参加武将の旗印になっています。重門さんもあります。
それから今度は垂井で得たパンフ。昨年来た時と変わっているのに少々驚いたokamel。その2つを紹介しますが、まずはこちら。ちなみに左側が昨年収集したもの、右側が今年のものです。
半兵衛さんの銅像の写真が加わりました。そしてこちら。
今年のは折りたたまれてもいない…。それはともかくとして、どうも「北部」という銘うちがあるので、エリアごとのものに作り直したようです。あと昨年のものに載っていた半兵衛さんの甲冑を着たマスコットキャラが消えて、別のキャラクターに。このマスコットキャラは今はレンタサイクルでしか見られなくなっているのかな(その写真は旅行記6で見られます)。
そしてこちらが禅幢寺で購入できるもの。左が梅干で右が手ぬぐい。
梅干は、昔ながらの塩と紫蘇だけでつけたものですとおばあさんが教えてくださいました。今白米や雑穀米、そして時にはお茶漬けにして食べています。新書太閤記に、京で療養中の半兵衛さんを見舞いに来た秀吉に対して半兵衛さんがさりげなく席をはずして手料理を振る舞い、それを知った秀吉が料理にこめられたぬくもりに涙するというシーンがありますが、その気持ちが味わえるような気がします。そして手ぬぐいはこのような感じになっております。
内側を見せるように撮るとよかったでしょうが、かすかに内側にかぶとが見えるのがわかりますでしょうか。背のほうの家紋はおなじみ丸に九枚笹、そして下の水玉模様は竹中家のもうひとつの家紋である白餅(他の本によると黒餅ともいうようですが)で、これはお正月の残りのお餅を半兵衛さんが懐に入れて出陣したら、たまたま流れ矢がそのお餅に刺さって命拾いしたためもうひとつの家紋にしたと言う話があり、後にそれは黒田家と譲り合ったとか何とか聞いております。そしてこの模様にはもうひとつ意味があって、昔お寺で(だったと思いますが)餅まきの風習があって、それを表してもいるのですとおばあさんが教えてくださいました。
それからこちらは菁莪記念館を訪れたときに購入した、地元発行の半兵衛さんの伝記本。
地元ならではの温かみがあるという感じで、okamel好きです。終わりのほうにその後の竹中家と垂井に関しての話もあります。
最後にこちらはたるいピアで購入したパンフ。過去に開催された特別展(常設展エリアの横に特別展示用の部屋が1つあります)のパンフが事務室で購入できるようになっていて、展示室内のカタログで希望するパンフの番号を確認して購入しました。これもまた地元でしか購入できない貴重な資料と言えます。
長浜では時間がなかったこともあり、何も購入しておりませんが、資料パンフは収集しています。ただ本当に展示史資料の解説パンフなので、ここでは割愛します。
ということで、ちょうど10と言うなんともきりのいい番号になりましたが(もちろん計ってこうしたわけではありません(笑))、これで今回の旅行についての記事は終わりとします。
6.11.09
関ヶ原・垂井・長浜紀行 9
今回で旅行記そのものはお仕舞いになります。
長浜を出て急いで垂井に舞い戻ったわけですが、帰る新幹線の時間だけは変えられないので残った時間をめいいっぱいうまく使わないとということで、結構あせりました。で、もうこの時間はレンタサイクルは無理なので、タクシーで一気に菁莪記念館に行きました。ちなみにこれは駅前の観光案内所(兼レンタサイクル貸し出し)の案内看板…

この記念館はガイドブックに載っている開館時間でも鍵がかかっていることがあります。そのときは隣の岩手公民館に行ってあけてもらわないといけません。このときも宿直の人にお願いして開けてもらいました。この方がまた少し説明をしてくださったのですが、どうも菩提山城は重門が幕府の許可をもらって陣屋を建てた後はあまり使われていなかったよう。ちなみに今回手に入れた書物のひとつによると、菩提山城は幕末の動乱時赤報隊によって焼かれてしまったそうです。赤報隊はあの相楽総三によって率いられた明治政府側(okamelは理念上、会津地方でかかれる歴史書同様明治政府側を「西軍」、幕府側を「東軍」と呼ぶ人間ですが、今回の旅行では関ヶ原が絡んでいてややこしくなるのを防ぐため、あえて今回はこう呼びます)の部隊で、後に偽官軍とされて総三は処刑されます。これを知るまでは赤報隊も薩長(というより多分長州でしょうかね)に翻弄された人たちのひとつと思っていましたが、また複雑な思いが増えました。焼く必要、あったのですかね。その地域のシンボルを壊すことで士気をそごうとでも思ったのか。
で、ここで前々回載せた、禅幢寺のおばあさんのお話のひとつである黒田家の幕末動乱後の竹中家復興運動のことを思い出していただきたいのですが、宿直さんはまた別の話をしてくださいました。この菁莪記念館はもともと菁莪学校という藩校跡を利用したものなのですが、そこの出身者に神田孝平という人がいます。この人は男爵にまでなった人なのですが、伊藤博文に竹中家の復興を懇願したそうで、それで処断前は5000石だったのを500石ということで存続を許されたとか。ちなみにそのころの5000石は今の18億円に相当するそうです。
あと、竹中陣屋の石垣は向かって左側と右側では築かれた時代が違い、左側は(確か)明治、右は江戸期のものなので、微妙に石の組み方が違うのだと教えてくれました。赤報隊は陣屋も攻撃しているので、そのときに左側はやられたのでしょうか。ともあれ、記念館を出たあと両側の石垣を見比べて見ましたが、確かに違いました。いわれないと気づかないokamelもなにやら。以下は菁莪記念館と、内部のうち資料(竹中家の家計図や竹中家について書かれた書物などのコピー、また菁莪学校で使われた教科書など)が展示されているエリアの写真です。外の写真は、出たときすでに17時30分過ぎでしたのでもうかなり暗くなっている中撮っているため、今までの写真と比べると少し色合いが違います。

そして垂井駅を最後に去る瞬間がついに来てしまったわけですが、列車に乗るまであの半兵衛さんの看板に背を向けることができなかったし、何よりあの看板、見ていただくとお分かりかと思いますが(今回の旅行記には載せていませんが、Wikiで半兵衛さんを検索していただくとオリジナルを見ることができます)、関ヶ原方向に顔が向いているので、何となく見送られているような感じになる。列車が来てドアが閉まった瞬間の気持ちは今でも忘れられません。涙が目からあふれないように一生懸命閉じたのを今でも覚えています(そして今、これを書きながら涙を流しているokamelです)。
okamelは転勤族育ちなので、故郷がありません(生まれたところもすぐ離れています)。そして長く住んだからと言ってそこに親近感を持つというものでもありません。実際、以前住んでいたところは10年いましたが、まったくこれといった感情を持つことはなかったです。でも、不思議と垂井は違うんです。これで計3回垂井を訪れたことになるのですが、そこにある風景が何となくすごく懐かしい。山も、川も、空気も。1日目に菁莪記念館でお話した臨時さんがokamelの言葉を聴いて「きっと何か縁があるのでしょうね」と言われましたが、そうであってほしいと思います。
この最終回を書くだけでもちょっと勇気を要したので、延び延びになってすみませんでしたが、これで旅行の過程を書くのはお仕舞いといたします。次回は今回の旅行で集めまくったものを紹介していこうかと。買ったものやパンフと言った感じです。
長浜を出て急いで垂井に舞い戻ったわけですが、帰る新幹線の時間だけは変えられないので残った時間をめいいっぱいうまく使わないとということで、結構あせりました。で、もうこの時間はレンタサイクルは無理なので、タクシーで一気に菁莪記念館に行きました。ちなみにこれは駅前の観光案内所(兼レンタサイクル貸し出し)の案内看板…
この記念館はガイドブックに載っている開館時間でも鍵がかかっていることがあります。そのときは隣の岩手公民館に行ってあけてもらわないといけません。このときも宿直の人にお願いして開けてもらいました。この方がまた少し説明をしてくださったのですが、どうも菩提山城は重門が幕府の許可をもらって陣屋を建てた後はあまり使われていなかったよう。ちなみに今回手に入れた書物のひとつによると、菩提山城は幕末の動乱時赤報隊によって焼かれてしまったそうです。赤報隊はあの相楽総三によって率いられた明治政府側(okamelは理念上、会津地方でかかれる歴史書同様明治政府側を「西軍」、幕府側を「東軍」と呼ぶ人間ですが、今回の旅行では関ヶ原が絡んでいてややこしくなるのを防ぐため、あえて今回はこう呼びます)の部隊で、後に偽官軍とされて総三は処刑されます。これを知るまでは赤報隊も薩長(というより多分長州でしょうかね)に翻弄された人たちのひとつと思っていましたが、また複雑な思いが増えました。焼く必要、あったのですかね。その地域のシンボルを壊すことで士気をそごうとでも思ったのか。
で、ここで前々回載せた、禅幢寺のおばあさんのお話のひとつである黒田家の幕末動乱後の竹中家復興運動のことを思い出していただきたいのですが、宿直さんはまた別の話をしてくださいました。この菁莪記念館はもともと菁莪学校という藩校跡を利用したものなのですが、そこの出身者に神田孝平という人がいます。この人は男爵にまでなった人なのですが、伊藤博文に竹中家の復興を懇願したそうで、それで処断前は5000石だったのを500石ということで存続を許されたとか。ちなみにそのころの5000石は今の18億円に相当するそうです。
あと、竹中陣屋の石垣は向かって左側と右側では築かれた時代が違い、左側は(確か)明治、右は江戸期のものなので、微妙に石の組み方が違うのだと教えてくれました。赤報隊は陣屋も攻撃しているので、そのときに左側はやられたのでしょうか。ともあれ、記念館を出たあと両側の石垣を見比べて見ましたが、確かに違いました。いわれないと気づかないokamelもなにやら。以下は菁莪記念館と、内部のうち資料(竹中家の家計図や竹中家について書かれた書物などのコピー、また菁莪学校で使われた教科書など)が展示されているエリアの写真です。外の写真は、出たときすでに17時30分過ぎでしたのでもうかなり暗くなっている中撮っているため、今までの写真と比べると少し色合いが違います。
そして垂井駅を最後に去る瞬間がついに来てしまったわけですが、列車に乗るまであの半兵衛さんの看板に背を向けることができなかったし、何よりあの看板、見ていただくとお分かりかと思いますが(今回の旅行記には載せていませんが、Wikiで半兵衛さんを検索していただくとオリジナルを見ることができます)、関ヶ原方向に顔が向いているので、何となく見送られているような感じになる。列車が来てドアが閉まった瞬間の気持ちは今でも忘れられません。涙が目からあふれないように一生懸命閉じたのを今でも覚えています(そして今、これを書きながら涙を流しているokamelです)。
okamelは転勤族育ちなので、故郷がありません(生まれたところもすぐ離れています)。そして長く住んだからと言ってそこに親近感を持つというものでもありません。実際、以前住んでいたところは10年いましたが、まったくこれといった感情を持つことはなかったです。でも、不思議と垂井は違うんです。これで計3回垂井を訪れたことになるのですが、そこにある風景が何となくすごく懐かしい。山も、川も、空気も。1日目に菁莪記念館でお話した臨時さんがokamelの言葉を聴いて「きっと何か縁があるのでしょうね」と言われましたが、そうであってほしいと思います。
この最終回を書くだけでもちょっと勇気を要したので、延び延びになってすみませんでしたが、これで旅行の過程を書くのはお仕舞いといたします。次回は今回の旅行で集めまくったものを紹介していこうかと。買ったものやパンフと言った感じです。
2.11.09
関ヶ原・垂井・長浜紀行 7
共有サイトが復活したので、旅行記を再開します。
お墓参りをしたあと、どうしても寄付をしたかったのと、参拝記念の手ぬぐいが欲しかったので、賽銭箱前にあった木の板をたたいたのですが、1回目何もなく、2回目何もなく…3回目で何もなかったらあきらめようと思いつつたたいたら、返事が。どこから側からずきょろきょろしていたら、お寺の門からおばあさんが。この方が今お寺を管理されている方で、ちょうど畑仕事をされていたのだそう。それで包んだお金を渡してから、手ぬぐいがあるかどうか聞いてみたら、矢張り前日の関ヶ原でのイベントで売れてしまっていたのですが、ひとつだけ見本としてとっておいたのがあるのでそれを差し上げますとのこと。ちょっと待ってくださいといわれたのでそこで待っていたら、お寺の戸をあけて中に入れてくださいました。何と手ぬぐいとともに、そのお寺で扱っている梅干まで下さいました。
そしていろいろ貴重なお話を聞かせていただくことになったのですが、まずこのお寺に安置されている半兵衛さんと黒田官兵衛・長政父子の御位牌の写真から…

左が半兵衛さんの、右側が官兵衛・長政父子のもので、後者は左側に長政の戒名、右側に官兵衛の戒名が書かれております。今回はソフト発光を使ったためか戒名ははっきり見えるかと思いますが、半兵衛さんの戒名、頭に「開基禅幢寺殿」とついております。これでは半兵衛さんがこのお寺の開基と思っても仕方がない…。で、この二つの御位牌を比べていただくと(また9月の三木の旅で紹介させていただいた半兵衛さんのもうひとつの御位牌と比べても)わかりますが、半兵衛さんの御位牌、両端が欠けています。これは、御位牌を保存していた建物が雪でつぶれてしまって(!!)、取り出すことはできたもののこうなってしまったのだということ。関ヶ原も、以前ほどでは最近ないようですが冬場新幹線が止まる名所(?)ですから、ここも雪が大変なところなのでしょう。ちなみにこの二つのご位牌は別のところに置かれておりまして、半兵衛さんのはお寺左奥の恐らく竹中一族の御位牌が安置されているところ、そして黒田父子のは仏壇左上の祭壇のようなところに置かれております。
で、ここで半兵衛さんのお墓のもう一枚の写真を載せますが…

実はそっくりなお墓が、2つの五輪の塔を挟んであるのですが、誰のお墓なのか尋ねたら、このおばあさんも竹中の御一族の方も御存じないとのこと。半兵衛さんのお墓とわかるのは、この建物の中には五輪の塔が安置されていてそれに「半兵衛」の名があるためなのだそうです。ところが隣の建物の中にある五輪の塔には何も名前がないためわかりかねるのだそう。形大きさが似ていることから、父親の重元か子の重門のものではないかという話でした。そして実はこの五輪の塔こそが、最初三木(平井)のお墓にあったものなのだそうです。つまり、子の重門が(15歳のときだそうですが)三木から移したというのは墓石だったんです。今三木にあるのは後になって作られたものなのだそうです。これで謎が解決しました。
で、竹中家は幕末に重固が幕府側についたので、所領を没収にされた上御家断絶にされたそうですが、黒田家は明治政府側についていたため一生懸命とりなしてあとあと役職にもつけるようになったというお話。これとはまたちょっと違うお話を菁莪記念館でこのあと聞くのですがそれは次回お話させていただくとして、半兵衛さんが松寿丸(長政)を救ったただ一度のことで黒田家は本当に恩義を感じたようで、本当にいろいろとお骨折りをしてくださったものだとおばあさんが語っておられました。また、半兵衛さんは三木に知行をもらったそうなのですが、自分が病にかかっていろいろ土地の人に迷惑をかけたからということで、すべてを寄付した上にいろいろと心遣いをしたそうです。今回手に入れた資料のひとつによると、疲弊した三木の一帯を立て直すため山林を切り開かせたり農地を開拓させたりもしたようで、それがために半兵衛さんの人気は地元の垂井よりも三木のほうで高いそうです。垂井では賛否両論あるということでしたが、おそらくそれは半兵衛さんに対してというよりは重固が幕府側についたことから竹中家に対してというお話ではないかと個人的には思う次第。明治政府が会津に対してやったことを考えると垂井も何がしかの扱いを受けたのかもしれませんが、このようなところにまで明治のごたごたは傷を残したものかと悲しくなるokamelであります(okamelは特に幕府・会津側から幕末史を調べてきた人間ですので、いよいよなんともいえない気持ちになるわけです)。そのあたりも、今後時間があったら調べてみてもいいかもしれないと思っております。おばあさんは、小泉元首相の「3つの坂」の話を引き合いに出されて、「『まさか』(これが小泉元首相の言う第3の坂)半兵衛さんも竹中がこうなるとは思っておられただろうか…でも土地を持ち続けていたとしても農地改革で全部とられただろうし、そもそも半兵衛さんはもともと無欲の方だったから…」と、感慨深げにおっしゃられていたのが印象に残っています。ちなみに確か6月の第1日曜に半兵衛さんの法要を行われていらっしゃるそうです。こちらは禅幢寺の仏壇(正式には何といえばよいのかokamelにはわかりません)です。竹中の九枚笹の紋があるのがお分かりかと思います。

他にもおばあさんが御主人とご一緒にこのお寺を引き継ぐことになったいきさつやその他興味深いお話をいろいろとしてくださったのですが、それはここでは割愛させていただきます。次回は長浜と2回目の菁莪記念館訪問について書くこととします。
お墓参りをしたあと、どうしても寄付をしたかったのと、参拝記念の手ぬぐいが欲しかったので、賽銭箱前にあった木の板をたたいたのですが、1回目何もなく、2回目何もなく…3回目で何もなかったらあきらめようと思いつつたたいたら、返事が。どこから側からずきょろきょろしていたら、お寺の門からおばあさんが。この方が今お寺を管理されている方で、ちょうど畑仕事をされていたのだそう。それで包んだお金を渡してから、手ぬぐいがあるかどうか聞いてみたら、矢張り前日の関ヶ原でのイベントで売れてしまっていたのですが、ひとつだけ見本としてとっておいたのがあるのでそれを差し上げますとのこと。ちょっと待ってくださいといわれたのでそこで待っていたら、お寺の戸をあけて中に入れてくださいました。何と手ぬぐいとともに、そのお寺で扱っている梅干まで下さいました。
そしていろいろ貴重なお話を聞かせていただくことになったのですが、まずこのお寺に安置されている半兵衛さんと黒田官兵衛・長政父子の御位牌の写真から…
左が半兵衛さんの、右側が官兵衛・長政父子のもので、後者は左側に長政の戒名、右側に官兵衛の戒名が書かれております。今回はソフト発光を使ったためか戒名ははっきり見えるかと思いますが、半兵衛さんの戒名、頭に「開基禅幢寺殿」とついております。これでは半兵衛さんがこのお寺の開基と思っても仕方がない…。で、この二つの御位牌を比べていただくと(また9月の三木の旅で紹介させていただいた半兵衛さんのもうひとつの御位牌と比べても)わかりますが、半兵衛さんの御位牌、両端が欠けています。これは、御位牌を保存していた建物が雪でつぶれてしまって(!!)、取り出すことはできたもののこうなってしまったのだということ。関ヶ原も、以前ほどでは最近ないようですが冬場新幹線が止まる名所(?)ですから、ここも雪が大変なところなのでしょう。ちなみにこの二つのご位牌は別のところに置かれておりまして、半兵衛さんのはお寺左奥の恐らく竹中一族の御位牌が安置されているところ、そして黒田父子のは仏壇左上の祭壇のようなところに置かれております。
で、ここで半兵衛さんのお墓のもう一枚の写真を載せますが…
実はそっくりなお墓が、2つの五輪の塔を挟んであるのですが、誰のお墓なのか尋ねたら、このおばあさんも竹中の御一族の方も御存じないとのこと。半兵衛さんのお墓とわかるのは、この建物の中には五輪の塔が安置されていてそれに「半兵衛」の名があるためなのだそうです。ところが隣の建物の中にある五輪の塔には何も名前がないためわかりかねるのだそう。形大きさが似ていることから、父親の重元か子の重門のものではないかという話でした。そして実はこの五輪の塔こそが、最初三木(平井)のお墓にあったものなのだそうです。つまり、子の重門が(15歳のときだそうですが)三木から移したというのは墓石だったんです。今三木にあるのは後になって作られたものなのだそうです。これで謎が解決しました。
で、竹中家は幕末に重固が幕府側についたので、所領を没収にされた上御家断絶にされたそうですが、黒田家は明治政府側についていたため一生懸命とりなしてあとあと役職にもつけるようになったというお話。これとはまたちょっと違うお話を菁莪記念館でこのあと聞くのですがそれは次回お話させていただくとして、半兵衛さんが松寿丸(長政)を救ったただ一度のことで黒田家は本当に恩義を感じたようで、本当にいろいろとお骨折りをしてくださったものだとおばあさんが語っておられました。また、半兵衛さんは三木に知行をもらったそうなのですが、自分が病にかかっていろいろ土地の人に迷惑をかけたからということで、すべてを寄付した上にいろいろと心遣いをしたそうです。今回手に入れた資料のひとつによると、疲弊した三木の一帯を立て直すため山林を切り開かせたり農地を開拓させたりもしたようで、それがために半兵衛さんの人気は地元の垂井よりも三木のほうで高いそうです。垂井では賛否両論あるということでしたが、おそらくそれは半兵衛さんに対してというよりは重固が幕府側についたことから竹中家に対してというお話ではないかと個人的には思う次第。明治政府が会津に対してやったことを考えると垂井も何がしかの扱いを受けたのかもしれませんが、このようなところにまで明治のごたごたは傷を残したものかと悲しくなるokamelであります(okamelは特に幕府・会津側から幕末史を調べてきた人間ですので、いよいよなんともいえない気持ちになるわけです)。そのあたりも、今後時間があったら調べてみてもいいかもしれないと思っております。おばあさんは、小泉元首相の「3つの坂」の話を引き合いに出されて、「『まさか』(これが小泉元首相の言う第3の坂)半兵衛さんも竹中がこうなるとは思っておられただろうか…でも土地を持ち続けていたとしても農地改革で全部とられただろうし、そもそも半兵衛さんはもともと無欲の方だったから…」と、感慨深げにおっしゃられていたのが印象に残っています。ちなみに確か6月の第1日曜に半兵衛さんの法要を行われていらっしゃるそうです。こちらは禅幢寺の仏壇(正式には何といえばよいのかokamelにはわかりません)です。竹中の九枚笹の紋があるのがお分かりかと思います。
他にもおばあさんが御主人とご一緒にこのお寺を引き継ぐことになったいきさつやその他興味深いお話をいろいろとしてくださったのですが、それはここでは割愛させていただきます。次回は長浜と2回目の菁莪記念館訪問について書くこととします。
30.10.09
関ヶ原・垂井・長浜紀行 6
1週間はあっという間で…もう旅行からそんなにたったのだなとしみじみ。つい先日行った様な気分なのですが…。半兵衛さん絡みでちょっと先に余談をしますが、この12月にでる戦国無双3の半兵衛さんの声紹介が公式サイトでされていたので聞いてみたら、予想はしていましたが女性の声優さんでした…但し少年声ということで。その半兵衛さんがいかつい顔の官兵衛と歩いているシーンがプロモーションムービーの中にありましたが、う~む。ちなみに夫がWii買ってあげるからやってみたらということで中古のWii(送料込みで約16,000円)を購入しました。今のところ他にやりたいのはないので、そのまま暫く保存状態ですが。
さて、では本題です。2日目は朝6時15分おき。前日は時刻表でいろいろプランを組みなおしたために12時くらいにベッドに入りました。それでも旅行のときは気が張るのでしょうか、帰りの新幹線でちょっとうとうとするまではぜんぜん眠くありませんでした。で、最初に行ったのが垂井の朝市で、その名も「半兵衛の里」。半兵衛さん、自分の名前がまさか市の名前になろうとは思ってもおられなかったことと(苦笑)。水・土・日の朝9時から11時までなのですが、先日書きましたように実際は8時半くらいからあいているのだそうです。以下がその写真ですが、本当に安い。近くのスーパーでは198円で売られているようなブロッコリーが80円。その1.5~2倍はあろうかというようなサイズが120円!あと袋いっぱいのトマトの詰め合わせ(ミニと普通のより一回り小さい感じ)が100円。正直買いたいなあとは思いつつも、それを持ってあちこち回ったり新幹線に乗ったりというのもなんだろうということで、結局買ったのは垂井で生産されたお茶。まだ開封しておりませんが、来週寒くなるようなので、そのときにそこそこ熱いのを入れて楽しみたいと思います(あまりに扱ったらまた舌をやけどしますので)。
この市の前を走る道路には2枚目のような標識(?)が!絵はあの駅前のものと同じですが、陰影がある分妙にリアル。また、このときは駅前の観光協会でレンタサイクルを扱っていたので、それでこの市と禅幢寺には行きました。その自転車は放置自転車のリサイクルだそうで、前かごには4枚目のようなプレートが。

この市のあと禅幢寺に向かったのですが、実はこの市の近くに、半兵衛さんと一緒に稲葉山城に乗り込んで片腕を失った家臣、不破矢足の墓があるそうです。でも見つからず、時間の関係もあって今回断念。禅幢寺ではまず前回撮り忘れた正面からの写真を撮りました。そしてこの写真ですが…

半兵衛さんのお墓のある地点からだいたい南東方向に向いて撮った写真です。実はこれを撮る直前、目の前を貨物列車が通っていたのです。カメラを構えた瞬間行ってしまいましたので残念ながら予想していただくしかないのですが、実はこの墓地のすぐ近くを、東海道本線とは別の線路が通っております。これは1日目のタクシー運転手さんによると、昔は普通の列車も通っていて近くに新垂井駅があったそうなのですが、もともとの垂井駅とややこしいということで廃止になってしまい、今は特急(そして実際通っていた以上貨物列車)専用の線路になってしまったそうです。その新しい駅の近くというのを売りにした住宅を買った人は、今では垂井駅まで出なければならなくなったという話…。
そしてこの旅行2度目のお墓参りをしたあと、ドラマがあったのですが、これは明日にします。でないと今日の記事がめちゃくちゃ長くなってしまいますので。
さて、では本題です。2日目は朝6時15分おき。前日は時刻表でいろいろプランを組みなおしたために12時くらいにベッドに入りました。それでも旅行のときは気が張るのでしょうか、帰りの新幹線でちょっとうとうとするまではぜんぜん眠くありませんでした。で、最初に行ったのが垂井の朝市で、その名も「半兵衛の里」。半兵衛さん、自分の名前がまさか市の名前になろうとは思ってもおられなかったことと(苦笑)。水・土・日の朝9時から11時までなのですが、先日書きましたように実際は8時半くらいからあいているのだそうです。以下がその写真ですが、本当に安い。近くのスーパーでは198円で売られているようなブロッコリーが80円。その1.5~2倍はあろうかというようなサイズが120円!あと袋いっぱいのトマトの詰め合わせ(ミニと普通のより一回り小さい感じ)が100円。正直買いたいなあとは思いつつも、それを持ってあちこち回ったり新幹線に乗ったりというのもなんだろうということで、結局買ったのは垂井で生産されたお茶。まだ開封しておりませんが、来週寒くなるようなので、そのときにそこそこ熱いのを入れて楽しみたいと思います(あまりに扱ったらまた舌をやけどしますので)。
この市の前を走る道路には2枚目のような標識(?)が!絵はあの駅前のものと同じですが、陰影がある分妙にリアル。また、このときは駅前の観光協会でレンタサイクルを扱っていたので、それでこの市と禅幢寺には行きました。その自転車は放置自転車のリサイクルだそうで、前かごには4枚目のようなプレートが。
この市のあと禅幢寺に向かったのですが、実はこの市の近くに、半兵衛さんと一緒に稲葉山城に乗り込んで片腕を失った家臣、不破矢足の墓があるそうです。でも見つからず、時間の関係もあって今回断念。禅幢寺ではまず前回撮り忘れた正面からの写真を撮りました。そしてこの写真ですが…
半兵衛さんのお墓のある地点からだいたい南東方向に向いて撮った写真です。実はこれを撮る直前、目の前を貨物列車が通っていたのです。カメラを構えた瞬間行ってしまいましたので残念ながら予想していただくしかないのですが、実はこの墓地のすぐ近くを、東海道本線とは別の線路が通っております。これは1日目のタクシー運転手さんによると、昔は普通の列車も通っていて近くに新垂井駅があったそうなのですが、もともとの垂井駅とややこしいということで廃止になってしまい、今は特急(そして実際通っていた以上貨物列車)専用の線路になってしまったそうです。その新しい駅の近くというのを売りにした住宅を買った人は、今では垂井駅まで出なければならなくなったという話…。
そしてこの旅行2度目のお墓参りをしたあと、ドラマがあったのですが、これは明日にします。でないと今日の記事がめちゃくちゃ長くなってしまいますので。
29.10.09
関ヶ原・垂井・長浜紀行 5
この次に行ったのが、菩提山城跡のハイキングコースのぼり口。実は山頂への道はokamelが去年両足の小指の皮がめくれながらも登った道とこの道と2つあるのでした。そして今回入り口に来たほうがいわゆるハイキングコースで、景色も眺められて険しいところも途中1箇所あるくらいなのだそう。住んでいるところが近かったらこちらの道を通ってもう一度山頂に行ってみたいものなのですが…
そしてここから撮れるのがこのような写真。この日は本当に雲ひとつない晴天でしたので…
この写真の真ん中あたりに見えるのが名古屋の駅らしいのですが、okamel名古屋駅に行ったのはそれこそ10年以上前(秀吉や清正のゆかりの史跡を歩いたことがあります)なのでなかなかイメージが思い浮かばず。そしてもうひとつここから見えるのが、「落人の里」といわれる地域。関ヶ原の戦いで敗れて帰ることのできなくなった西軍の人々(ある意味生き残った人が全員国に帰ることのできたのは島津軍くらいですから。とはいえ、敵前突破しておりますので生き残ったのは本当にわずかですけれども)が住んだ地域というのがありまして、それも写真には撮りました。さすがにそのままの氏では住めないので改姓して住んだそうです。
そして次に行ったのが南宮大社。日本の三大大社のひとつなのだそうです。残念ながら今順次修繕中で、今は2枚目の写真のとおり本殿の修築中でした。昔は結構式場もあったらしいのですが(運転手さんの息子さんはそこで結婚式をなされたそう)ですが、なくなってしまったそうで…。その大社まで行く道がまた細くて複雑で、おまけに下水工事(まだ下水の通っていない地域があるのだそうです。まあ、以前okamelが住んでいたところも最近までなかったですから)中で通れる道が限られていて大変でした。生垣を少しバリバリ言わせながら通ったくらい。運転手さんのお話ではこのあたりは空襲がなかったので、こういった道も残っている(これと同じことを、2日目に菁莪記念館を再訪した時案内してくださった公民館の当直の方が話しておられました)そうです。

そしてこのあと、菁莪記念館へ。ちょうど展示物の整理を臨時職員さん2人がされている最中で、この日は午後からその関係であいていたそうです(!)。実はこの記念館、平日は14時から18時、土曜日は14時から21時、日曜日は9時から17時までというのが一応の開館時間なのですが、要は隣にある公民館が開いているときがあいているときという感じらしいのですね。また時間だからといって必ずあいているわけではなくて、しまっていたら時間内なら公民館に申し出てあけてもらう感じになるのだそうです。事前に申し込んでおくと館長さんが説明をしてくださるらしかったのですが、okamelそれを知りませんで、またその日は行事があったそうなので、お願いできず、ちょっとそれは残念でした。ただタクシーの運転手さんによると、話していただけるのはいかに竹中家が苦労して生き残ってきたかということのようで、実際関ヶ原でも幕末の動乱でも両方に人を置いたそうです。このあたりはokamelもう少し自分で調べてみる必要ありかなと(関ヶ原で知っているのは、少なくとも重門は最初西軍に属していたのが戦の前に東軍に変え、九州の半兵衛さんのおじの血筋の分家も同じように当初西軍だったのが東軍に変わったということ、そして幕末は幕府軍についたということなので)。で、その資料館は撮影自由だということだったので、いくつかとらせていただいた(その中にはとんでもないものもありますが、それが何かは秘密)中からここに数枚を。

3枚目は竹中陣屋があったころの模型です。また4枚目のお人形の半兵衛さんは昭和時代の作ですが竹中家所蔵の肖像画同様左手にお数珠を持っておられます。なんとも優しい表情なのでこれを見るたび(そして思い出すたび)うるうるしてしまいます。史資料が写しばかりだとおっしゃっておられましたが、確かにこの資料館の環境ですと原本の展示は厳しいところがあるかもしれません。でも資料という資料が、保存のためかもしれませんが基本的にゆかりも何もない一定の限られたところに集中してしまうというのも、okamel的にはどうかなという気がしなくはないのでありました。
そしてこのあとたるいピアセンターに連れて行ってもらってタクシーはおしまい。中は普通の図書館と資料室、そして歴史資料館がありまして、最初に歴史資料館を見て回りました。古代から現代までの歴史の中に半兵衛さんの特設コーナーもあります。他の方のブログによるとここも撮影自由だったということなので、okamelも一部とったものを載せます。

2枚目のは一見してお分かりかと思いますが、竹中陣屋の建物のミニチュア(?)で、真ん中の画面で半兵衛さんの一生を秀吉が語る形式で案内するビデオを見ることができるようになっています。本当に素朴なビデオでした。また話し方もとても良かったです。鎧を着たまま亡くなっているというのが「!」という感じではありましたが、まあ。
そして資料館でいくつか本のコピーをとってセンターを出たのは18時前でした。資料を調べているとき小耳に挟んだのが、翌日は10人くらいが資料室に来て何かをする予定という話で、もしその日にきていたらゆっくり調べ物ができなかったかもしれないと思うと、これもまためぐり合わせかなと思わずにいられませんでした。で、でたときは外はすでにほぼ真っ暗。そのため駅までは近いのに思い切り道に迷いまして、結局岐阜に19時過ぎに着くことになってしまいました。懐中電灯がなかったらもっと困っていた(自転車のライトが懐中電灯兼用で、そのときも持っていたので、地図を確認するのに役立ったわけです)と思います。写真はセンター入り口にある垂井町憲章とセンター遠景(真っ暗なのでわからないでしょうが)、やっとの思いで(?)たどり着いた垂井駅からの夕暮れの写真、岐阜駅の前にあったライトアップされた信長の像(なんとなくスターウォーズの雰囲気(笑))そしておまけの泊まったホテルの部屋です。

結局こういう時間になってしまったので、今回も岐阜の歴史博物館には行くことができませんでした。よほど縁がないのか。今後の特別展次第ではまた考えてもよいかなと思っておりますが。何せ再来年がまた戦国がらみですからね。
では次回は垂井2日目について書くこととなるかと思います。
そしてここから撮れるのがこのような写真。この日は本当に雲ひとつない晴天でしたので…
この写真の真ん中あたりに見えるのが名古屋の駅らしいのですが、okamel名古屋駅に行ったのはそれこそ10年以上前(秀吉や清正のゆかりの史跡を歩いたことがあります)なのでなかなかイメージが思い浮かばず。そしてもうひとつここから見えるのが、「落人の里」といわれる地域。関ヶ原の戦いで敗れて帰ることのできなくなった西軍の人々(ある意味生き残った人が全員国に帰ることのできたのは島津軍くらいですから。とはいえ、敵前突破しておりますので生き残ったのは本当にわずかですけれども)が住んだ地域というのがありまして、それも写真には撮りました。さすがにそのままの氏では住めないので改姓して住んだそうです。
そして次に行ったのが南宮大社。日本の三大大社のひとつなのだそうです。残念ながら今順次修繕中で、今は2枚目の写真のとおり本殿の修築中でした。昔は結構式場もあったらしいのですが(運転手さんの息子さんはそこで結婚式をなされたそう)ですが、なくなってしまったそうで…。その大社まで行く道がまた細くて複雑で、おまけに下水工事(まだ下水の通っていない地域があるのだそうです。まあ、以前okamelが住んでいたところも最近までなかったですから)中で通れる道が限られていて大変でした。生垣を少しバリバリ言わせながら通ったくらい。運転手さんのお話ではこのあたりは空襲がなかったので、こういった道も残っている(これと同じことを、2日目に菁莪記念館を再訪した時案内してくださった公民館の当直の方が話しておられました)そうです。
そしてこのあと、菁莪記念館へ。ちょうど展示物の整理を臨時職員さん2人がされている最中で、この日は午後からその関係であいていたそうです(!)。実はこの記念館、平日は14時から18時、土曜日は14時から21時、日曜日は9時から17時までというのが一応の開館時間なのですが、要は隣にある公民館が開いているときがあいているときという感じらしいのですね。また時間だからといって必ずあいているわけではなくて、しまっていたら時間内なら公民館に申し出てあけてもらう感じになるのだそうです。事前に申し込んでおくと館長さんが説明をしてくださるらしかったのですが、okamelそれを知りませんで、またその日は行事があったそうなので、お願いできず、ちょっとそれは残念でした。ただタクシーの運転手さんによると、話していただけるのはいかに竹中家が苦労して生き残ってきたかということのようで、実際関ヶ原でも幕末の動乱でも両方に人を置いたそうです。このあたりはokamelもう少し自分で調べてみる必要ありかなと(関ヶ原で知っているのは、少なくとも重門は最初西軍に属していたのが戦の前に東軍に変え、九州の半兵衛さんのおじの血筋の分家も同じように当初西軍だったのが東軍に変わったということ、そして幕末は幕府軍についたということなので)。で、その資料館は撮影自由だということだったので、いくつかとらせていただいた(その中にはとんでもないものもありますが、それが何かは秘密)中からここに数枚を。
3枚目は竹中陣屋があったころの模型です。また4枚目のお人形の半兵衛さんは昭和時代の作ですが竹中家所蔵の肖像画同様左手にお数珠を持っておられます。なんとも優しい表情なのでこれを見るたび(そして思い出すたび)うるうるしてしまいます。史資料が写しばかりだとおっしゃっておられましたが、確かにこの資料館の環境ですと原本の展示は厳しいところがあるかもしれません。でも資料という資料が、保存のためかもしれませんが基本的にゆかりも何もない一定の限られたところに集中してしまうというのも、okamel的にはどうかなという気がしなくはないのでありました。
そしてこのあとたるいピアセンターに連れて行ってもらってタクシーはおしまい。中は普通の図書館と資料室、そして歴史資料館がありまして、最初に歴史資料館を見て回りました。古代から現代までの歴史の中に半兵衛さんの特設コーナーもあります。他の方のブログによるとここも撮影自由だったということなので、okamelも一部とったものを載せます。
2枚目のは一見してお分かりかと思いますが、竹中陣屋の建物のミニチュア(?)で、真ん中の画面で半兵衛さんの一生を秀吉が語る形式で案内するビデオを見ることができるようになっています。本当に素朴なビデオでした。また話し方もとても良かったです。鎧を着たまま亡くなっているというのが「!」という感じではありましたが、まあ。
そして資料館でいくつか本のコピーをとってセンターを出たのは18時前でした。資料を調べているとき小耳に挟んだのが、翌日は10人くらいが資料室に来て何かをする予定という話で、もしその日にきていたらゆっくり調べ物ができなかったかもしれないと思うと、これもまためぐり合わせかなと思わずにいられませんでした。で、でたときは外はすでにほぼ真っ暗。そのため駅までは近いのに思い切り道に迷いまして、結局岐阜に19時過ぎに着くことになってしまいました。懐中電灯がなかったらもっと困っていた(自転車のライトが懐中電灯兼用で、そのときも持っていたので、地図を確認するのに役立ったわけです)と思います。写真はセンター入り口にある垂井町憲章とセンター遠景(真っ暗なのでわからないでしょうが)、やっとの思いで(?)たどり着いた垂井駅からの夕暮れの写真、岐阜駅の前にあったライトアップされた信長の像(なんとなくスターウォーズの雰囲気(笑))そしておまけの泊まったホテルの部屋です。
結局こういう時間になってしまったので、今回も岐阜の歴史博物館には行くことができませんでした。よほど縁がないのか。今後の特別展次第ではまた考えてもよいかなと思っておりますが。何せ再来年がまた戦国がらみですからね。
では次回は垂井2日目について書くこととなるかと思います。
28.10.09
関ヶ原・垂井・長浜紀行 4
昨晩はまた変な夢を見ました…よくスーパーで売られている袋入りのテーブルロールを、袋ごと誤ってお手洗いに流してしまうというもの…何で。
では、本日は垂井の旅第1日目について。当初はこれ、レンタサイクルで行く予定だったのですが、関ヶ原で借りようとしている人に対してしている説明をちらと聞いたもの同様、借りられるのは10時から14時、そして垂井の場合駅前の観光協会でも借りられるのですがこれは土日祝日限定。つまり1日目は平日だったのであいておりませんでした。借りたければもう少し歩いてある食堂、もしくは遠く半兵衛の里まで行かなければ行けなかったので(この半兵衛の里については2日目のところで触れます)、これはちょっと無理そう…ということで急遽タクシーに。最終的にかかったタクシー代は、JRにかかった金額ほどではないにしろどっひゃあになりましたが、これがまた半兵衛さんの御加護と申しますか、いろいろと詳しいお話をしてくださるいい運転手さんでした。しかも写真が趣味(もともとその関係の会社に勤めていらっしゃったそうです)という方だったので、いくつか取ってくださった写真もとてもうまく撮れていて感激。但し今回はokamelサングラスを取って撮ってもらいましたので、どうしてもokamelの素顔が見たいというよほどの希望者にだけリンクをお知らせ…なんて(笑)。
で、最初に行ったのは五明稲荷。これは前回行けなかったところのひとつで、黒田官兵衛(如水)が離反した荒木村重を説得しに行って逆につかまったとき信長が殺せと命じた、官兵衛の息子で人質となっていた(当時秀吉が半兵衛さんに預けていたようです)松寿丸、後の長政を、半兵衛さんが殺したと偽ってその実かくまったところでして、官兵衛が助け出されてそこを去るときに松寿丸が植えたという手植えのイチョウが今もあります。以下がその五明稲荷の写真ですが…

う~ん、イチョウが2本。どちらともそうなのかな。しかも少し伐られてしまっております。それにしても400年たつとこれだけ大きくなるものなのでしょうか。そして次に行ったのが陣屋跡。確か前回写真を載せたと思いますが、実はここ、登れました。といっても建物の中に入れるというわけではないのですが、その写真がこちら。

何か説明をしてくださったと思うのですが、忘れました(泣)。で、時間的にまだその隣にある菁莪記念館は開いていないだろう(平・土曜日は14時から17時と聞いていた)と思ったので、その次が半兵衛さんの菩提所、禅幢寺。行って見ますと、説明の看板が何とこのようなことに。アップの写真も入れますが…
台風でやられたのでしょうかと運転手さんに聞いたら、いやこの前の台風はそれほど大したことはなかったというお話。結構ど真ん中を通っていたような気がするのですが…。そしてこの張り紙、おぼえていらっしゃる方もおられると思いますが…

前の部分が消えております。これがもとどうだったのかはこちらをご覧になっていただくとわかります。ただokamel的にはこの間違い、お寺さんのせいとはいえないような気もします。その理由は垂井旅行記第2日目でお話しすることといたしまして、今回は半兵衛さん撮らせてねということでお墓の写真を撮りました。それがこちら。

そしてこの日はこれで去ったのですが、2日目、大きなドラマが起きたのでした。これも2日目のところで書きます。
明日は垂井旅行記1日目の続きと参ります。
では、本日は垂井の旅第1日目について。当初はこれ、レンタサイクルで行く予定だったのですが、関ヶ原で借りようとしている人に対してしている説明をちらと聞いたもの同様、借りられるのは10時から14時、そして垂井の場合駅前の観光協会でも借りられるのですがこれは土日祝日限定。つまり1日目は平日だったのであいておりませんでした。借りたければもう少し歩いてある食堂、もしくは遠く半兵衛の里まで行かなければ行けなかったので(この半兵衛の里については2日目のところで触れます)、これはちょっと無理そう…ということで急遽タクシーに。最終的にかかったタクシー代は、JRにかかった金額ほどではないにしろどっひゃあになりましたが、これがまた半兵衛さんの御加護と申しますか、いろいろと詳しいお話をしてくださるいい運転手さんでした。しかも写真が趣味(もともとその関係の会社に勤めていらっしゃったそうです)という方だったので、いくつか取ってくださった写真もとてもうまく撮れていて感激。但し今回はokamelサングラスを取って撮ってもらいましたので、どうしてもokamelの素顔が見たいというよほどの希望者にだけリンクをお知らせ…なんて(笑)。
で、最初に行ったのは五明稲荷。これは前回行けなかったところのひとつで、黒田官兵衛(如水)が離反した荒木村重を説得しに行って逆につかまったとき信長が殺せと命じた、官兵衛の息子で人質となっていた(当時秀吉が半兵衛さんに預けていたようです)松寿丸、後の長政を、半兵衛さんが殺したと偽ってその実かくまったところでして、官兵衛が助け出されてそこを去るときに松寿丸が植えたという手植えのイチョウが今もあります。以下がその五明稲荷の写真ですが…
う~ん、イチョウが2本。どちらともそうなのかな。しかも少し伐られてしまっております。それにしても400年たつとこれだけ大きくなるものなのでしょうか。そして次に行ったのが陣屋跡。確か前回写真を載せたと思いますが、実はここ、登れました。といっても建物の中に入れるというわけではないのですが、その写真がこちら。
何か説明をしてくださったと思うのですが、忘れました(泣)。で、時間的にまだその隣にある菁莪記念館は開いていないだろう(平・土曜日は14時から17時と聞いていた)と思ったので、その次が半兵衛さんの菩提所、禅幢寺。行って見ますと、説明の看板が何とこのようなことに。アップの写真も入れますが…
台風でやられたのでしょうかと運転手さんに聞いたら、いやこの前の台風はそれほど大したことはなかったというお話。結構ど真ん中を通っていたような気がするのですが…。そしてこの張り紙、おぼえていらっしゃる方もおられると思いますが…
前の部分が消えております。これがもとどうだったのかはこちらをご覧になっていただくとわかります。ただokamel的にはこの間違い、お寺さんのせいとはいえないような気もします。その理由は垂井旅行記第2日目でお話しすることといたしまして、今回は半兵衛さん撮らせてねということでお墓の写真を撮りました。それがこちら。
そしてこの日はこれで去ったのですが、2日目、大きなドラマが起きたのでした。これも2日目のところで書きます。
明日は垂井旅行記1日目の続きと参ります。
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