6.11.09

関ヶ原・垂井・長浜紀行 9

 今回で旅行記そのものはお仕舞いになります。
 長浜を出て急いで垂井に舞い戻ったわけですが、帰る新幹線の時間だけは変えられないので残った時間をめいいっぱいうまく使わないとということで、結構あせりました。で、もうこの時間はレンタサイクルは無理なので、タクシーで一気に菁莪記念館に行きました。ちなみにこれは駅前の観光案内所(兼レンタサイクル貸し出し)の案内看板…

 この記念館はガイドブックに載っている開館時間でも鍵がかかっていることがあります。そのときは隣の岩手公民館に行ってあけてもらわないといけません。このときも宿直の人にお願いして開けてもらいました。この方がまた少し説明をしてくださったのですが、どうも菩提山城は重門が幕府の許可をもらって陣屋を建てた後はあまり使われていなかったよう。ちなみに今回手に入れた書物のひとつによると、菩提山城は幕末の動乱時赤報隊によって焼かれてしまったそうです。赤報隊はあの相楽総三によって率いられた明治政府側(okamelは理念上、会津地方でかかれる歴史書同様明治政府側を「西軍」、幕府側を「東軍」と呼ぶ人間ですが、今回の旅行では関ヶ原が絡んでいてややこしくなるのを防ぐため、あえて今回はこう呼びます)の部隊で、後に偽官軍とされて総三は処刑されます。これを知るまでは赤報隊も薩長(というより多分長州でしょうかね)に翻弄された人たちのひとつと思っていましたが、また複雑な思いが増えました。焼く必要、あったのですかね。その地域のシンボルを壊すことで士気をそごうとでも思ったのか。
 で、ここで前々回載せた、禅幢寺のおばあさんのお話のひとつである黒田家の幕末動乱後の竹中家復興運動のことを思い出していただきたいのですが、宿直さんはまた別の話をしてくださいました。この菁莪記念館はもともと菁莪学校という藩校跡を利用したものなのですが、そこの出身者に神田孝平という人がいます。この人は男爵にまでなった人なのですが、伊藤博文に竹中家の復興を懇願したそうで、それで処断前は5000石だったのを500石ということで存続を許されたとか。ちなみにそのころの5000石は今の18億円に相当するそうです。
 あと、竹中陣屋の石垣は向かって左側と右側では築かれた時代が違い、左側は(確か)明治、右は江戸期のものなので、微妙に石の組み方が違うのだと教えてくれました。赤報隊は陣屋も攻撃しているので、そのときに左側はやられたのでしょうか。ともあれ、記念館を出たあと両側の石垣を見比べて見ましたが、確かに違いました。いわれないと気づかないokamelもなにやら。以下は菁莪記念館と、内部のうち資料(竹中家の家計図や竹中家について書かれた書物などのコピー、また菁莪学校で使われた教科書など)が展示されているエリアの写真です。外の写真は、出たときすでに17時30分過ぎでしたのでもうかなり暗くなっている中撮っているため、今までの写真と比べると少し色合いが違います。



 そして垂井駅を最後に去る瞬間がついに来てしまったわけですが、列車に乗るまであの半兵衛さんの看板に背を向けることができなかったし、何よりあの看板、見ていただくとお分かりかと思いますが(今回の旅行記には載せていませんが、Wikiで半兵衛さんを検索していただくとオリジナルを見ることができます)、関ヶ原方向に顔が向いているので、何となく見送られているような感じになる。列車が来てドアが閉まった瞬間の気持ちは今でも忘れられません。涙が目からあふれないように一生懸命閉じたのを今でも覚えています(そして今、これを書きながら涙を流しているokamelです)。
 okamelは転勤族育ちなので、故郷がありません(生まれたところもすぐ離れています)。そして長く住んだからと言ってそこに親近感を持つというものでもありません。実際、以前住んでいたところは10年いましたが、まったくこれといった感情を持つことはなかったです。でも、不思議と垂井は違うんです。これで計3回垂井を訪れたことになるのですが、そこにある風景が何となくすごく懐かしい。山も、川も、空気も。1日目に菁莪記念館でお話した臨時さんがokamelの言葉を聴いて「きっと何か縁があるのでしょうね」と言われましたが、そうであってほしいと思います。
 この最終回を書くだけでもちょっと勇気を要したので、延び延びになってすみませんでしたが、これで旅行の過程を書くのはお仕舞いといたします。次回は今回の旅行で集めまくったものを紹介していこうかと。買ったものやパンフと言った感じです。

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